2010年02月03日

つながり

日記 2010

どこで聞いたのか忘れたんだけど、
「その人が死んでしまったとしても、その人の記憶を、今生きている誰かが忘れない限り、その人はまだ 『生きて』 いるということである。」
と唱えてる人がいた。

確かにそうだよな。

・ ・ ・ ・ ・

ボクの婆さんは、産婦人科の給食係を仕事にしていた。
いつも元気で、せっかちで、おっちょこちょいで、O型を絵に描いたようにデタラメだけど、愛嬌のある人だった。ボクは、婆ちゃんの働いていたその病院で2月2日のお昼ちょっと前に生まれた (と婆ちゃんから何度も聞いた)。

特に 「お婆ちゃんっ子」 というわけでもなかったのだけど、母方の一家の初孫として、ボクはとても可愛がられたなあと思う。

群馬の爺さん婆さんの家に泊まりに行くと、翌朝6時には婆ちゃんが枕元でささやく。
「ヒロちゃんは今日は何が食べたいん?」
必ず答えるのは 「ウィンナー」 だった。
またウトウトして、暖かい布団の海の中にのみこまれていく。次に目が覚めて起き出すと、必ず食卓には赤いウィンナーが並んでいた。絵を描くのが好きだったボクのために、鏡台の下の引き出しに、ウラが白紙のチラシをとっておいてくれたのも婆ちゃんだった。

そんな婆ちゃんは遠くに住んでいたんだけど、中学1年の夏、我が家に遊びに来た翌朝亡くなった。眠っている爺ちゃんの隣で、いつのまにか息をひきとっていた。爺ちゃんの悲鳴でみんなが飛び起きて、ボクの父親が医者を呼んできた。懐中電灯で目の奥を覗いてる医者の横で、冷たくなった婆ちゃんの姿を、正座をして眺めていた爺ちゃんは、夏なのにブルブルと震えていたことを今でも覚えている。

・ ・ ・ ・ ・

先月末の暖かい日の朝、ボクの妹に男の子が生まれた。
2時間後、妹から 「甥っ子」 の写真がケータイへ届く。
「やっぱり自分の子供はカワイイよ」
子供産んで2時間後の母親が呟く言葉か、それって? 
妹はあいかわらず冷静な女である。
しかし……これでオレも正真正銘の 「おじちゃん」 になったわけである。

その日、お客からの電話の合間に、父親の携帯から電話。
「生まれたよー」
言葉は少ないけど、相当喜んでるのが分かる。

中学校まではよかったのに、高校に入って崖を転がるように落ちこぼれた息子が、やっと大学に合格した日、父親はめずらしく仕事から早く帰ってきて、「よかったなー」 といいながらビールをうまそうに飲んだ。
おそらく、20年前の、あの時以来の喜びだということが電話越しにも分かった。

・ ・ ・ ・ ・

その後数日、毎日届く甥っ子の写真。
「爺さんは息子にメロメロだよ」
と添えられている妹からのメールの文面に 「本当か?」 と思う。
およそ、『家庭』 というコトバが似合わない仕事人間だった父親が、いつのまにそうなったのか?
定年して約10年。最近は料理もするというから、ボクが父親を見ていない、ということでもあるんだが……。

・ ・ ・ ・ ・

それを確かめたい思いもあって、この週末、実家に帰った。
甥っ子とのご対面。

ボクが帰ると、母親と妹は餃子鍋のための餃子を作っていた。
「どこにいるんだよ?」
「居間で寝てるよ」
と、あいかわらずクールな妹。

居間に置いてある、小さなカゴの中で、甥っ子はスヤスヤ眠っていた。

「ち、ちっちぇー」

というのが最初の印象。
生まれたばかりの子供というのは、こんなにも小さいのか。。
ヒロシおじちゃんとの初の対面をしても、甥っ子は泣かなかった。意外と印象がよかったのかもしれない。

「この子 『ウンコたれ』 でさあ」

と言いながら、餃子鍋の隣で不慣れな手つきで妹がおしめを変える。
小さいけど、立派なチン○もついている。
甥っ子、姪っ子はカワイイというが、なんだかリアリティが湧いてきた。

驚いたのは父親。
「とーもくん、とーもくん」 (甥っ子は 「友哉」 と命名された) といって、
隙あれば甥っ子を抱っこし、その手を話さない。
ボクからすれば、ちょっと異様な光景でもある。
はやく孫が欲しかったんだなぁという、複雑な気持ちにもなったけど、嬉しそうな父親の顔は、
ボクもやはり嬉しかった。
妹よ、あんたはエラいよ!

・ ・ ・ ・ ・

27年前、婆ちゃんが亡くなったこの部屋で、
娘だった母が 「お祖母ちゃん」 になり、妹が母になり、妹の息子が育っていく。
きっと数年後、母は眠っている甥っ子に聞くだろう。
「トモ君、朝ごはんは何が食べたいんだい?」

その夜、居間に布団を敷いて眠ったら、婆ちゃんの夢を見た (気がした)。
お墓参りいかないとな。

2009年08月14日

F1地上の夢

日記 2009

そうか、死んじゃったのか。
http://www.jiji.com/jc/c?g=obt_30&k=2009081400292

F1やクルマやバイクに興味を持ったのはこの本がきっかけだった。17歳のとき。
ドキュメンタリー本が面白い、って知ったのもこの本だったような気がする。
下館駅前の新潮書房で買ったなぁ。

海老沢氏、同郷ではないか!

2009年04月23日

おかのみどり

日記 2009

気がつけば、あっという間に桜の季節も過ぎてしまったけど、
新緑がキレイな季節である。
街中に生命力があふれるこの季節が一番好き。


砧公園 2009/4/8


……という話ではなくて。


妹が結婚するという。
苗字が変わって 「おかのみどり」 になるらしい。


なんだそれ(笑)


隣の家の塀をスカートのまま平気で乗り越え、泥だらけになりながら、ボクら男の子と遊んでた妹がお嫁さんになる……、なんて感慨も別になく(笑)
まあ、「幸せになれよ」 という、いかりや長介的応援をするくらいのもんである。

ボクの幼なじみの近所の餓鬼どもはみんな男の子で、その中で妹も一緒になって遊んでいたものだから、彼女は大変 「男勝り」 な女に育った。妹の彼氏が言っていたが、会社では彼女は 「怖い人」 として恐れられているそうである。わが妹ながら頼もしい。

……にしても、妹は嫁に行くわけだから、戸籍上は家族が減るわけで、
それはそれですごく変な気持ちでもある。

実家のオレの部屋も戻ってくるんだろうか。昔自分の部屋だった、今の妹の部屋の押入れにはたぶんボクの宝物がいろいろ眠っているはずだ。連休に発掘してみよう。


1974年頃


まあ、妹に対しては褒めたこととか優しくしたこととか、おそらく一度もないんだけど……、
おめでとう。よかったな。

2009年03月17日

汽笛

日記 2009

2009年3月13日、18時03分、東京駅10番線。
「ありがと~」 という絶叫と拍手。そして、デジカメを掲げた腕、腕、腕……。
ものすごい人で全く身動きがとれない。

(しかしまあ、こりゃちょっと異様だね)

会社の行動予定表に 「打ち合わせ、直帰」 とか書いて、コソっとオフィスを抜け出して駆けつけたおじさん達、実に3000人。(いや、おじさんばかりではなかったが……)
定刻どおりの18時03分。EF66が放った、いつもよりだいぶ長めの汽笛の音は、そんなおじさん達が涙するのに十分な、機関士からのプレゼントであった。

しかしこの、演歌のよく似合う、もの悲しげな電気機関車の汽笛 (ホイッスルと言うんですね) というのは、
いったい誰が音色を調整したのだろう? ちょっと調べてみたい気がする。




2009年03月10日

ロマン

日記 2009


3月14日。
そうだ、3月14日。

ホワイトデーではない。
JRのダイヤ改正の日。

この前日で東京と九州を結ぶブルートレインが廃止される。


「鉄道ファン」2009年3月号


2月のある日、めずらしく本屋に行った。仕事で必要な、旅行関係の雑誌を探しに行ったはずが、
買って帰ってきたのは 「鉄道ファン」 だった。
懐かしい! よくぞ残っていてくれた! 今はなんと、1,200円もするのか!!

(恐ろしいな、ググってみると、「鉄道ジャーナル」 も 「鉄道ピクトリアル」 も健在である)


小学校時代、ボクの愛読書は、雑誌 「鉄道ファン」。
1ヵ月に1,000円しか小遣いもらえないのに、そいつは880円もしやがった。お釣りはたったの120円!
それでも、この雑誌の満足感は格別だった。なんつったって、写真が美しかったから。


みんながガンダムのプラモに夢中だったころ、ボクは東北本線の駅のホームにいた。
オヤジのミノルタXGを構えて、「はつかり」 や 「やまびこ」 なんかの特急列車の流し撮りを成功させるのに夢中だった (シャッタースピードを1/30ないしは1/15にするのがポイントです)。

写真を撮っても、同時プリントなんて、ナカナカできない。「現像だけお願いします」 と写真屋のオバちゃんに言って、できあがったネガを穴があくほど眺めて、よく撮れてるものだけ1枚単位で注文した。

お金がなくて、現像ができなくて……、今でも実家のどこかには現像できなかったフィルムが残っているだろうと思う。そう考えると、カメラがデジタルになった今は便利すぎてよくない。現像があがって、山口百恵の写真が印刷された富士カラーのネガ袋から、おそるおそるネガを取り出すときのドキドキ感が全くないからね。

そんなこんなで、ボクは 「ガンダム世代」 の渦中にいたはずなのに、全くガンダムを知らない。


二十数年ぶりに開いた 「鉄道ファン」 は、しかしながら、ボクを興奮させるのに十分であった。なんなんだ、この情報量! 全ページカラーという贅沢さ! 恐ろしいほど緻密なデータベース!
日ごろ見慣れた、最近の雑誌がいかに 「うすっぺらい」 ものであるかを、まざまざと見せつけられる。
しばらく連絡もしてなかったのに、期待どおりに出迎えてくれる 「鉄チャン」 という名の同志達には、まさに脱帽の想いであった。


「さらば 富士・はやぶさ」特集


「富士」 「はやぶさ」 の引退を惜しむこの号の特集は、涙なしにはページをめくれない。
「この写真!81年の10月号ぐらいで見た!」 「このアングル、何度も絵に描いた!」
幼少時代の記憶ほど、鮮明なものはないのだ。


ちょっと前、仕事で打ち合わせをしてる時に、くだらない企画書の裏紙を使って電車の絵を描いてみたことがある。0系新幹線も、183系 「とき」、それから583系 「明星」、それにそれにEF65牽引のブルートレインも、約25年ぶりなのに、そうとう上手く描けた。

「EF65の500番台と、1000番台の違いは、貫通扉があるかどうかなんだよ。78年ぐらいからかな、1000番台に変わったのは……」 とか言いながら、 「あさかぜ」 号のヘッドマークを描くボクを見守る同僚たちの視線が、やや冷たかったことをボクは見逃していない。

いやいや、「昔とった杵柄」 とはこのことなのである。(何の役にもたたないが……) 0系新幹線の鼻先のアール、それから183系のボンネットのアールはものすごく微妙で難しいのだ。それを描き分ける 「繊細な観察眼」 が、今のボクを形作っているのではないか!

(それは冗談だとしても、レイアウトや情報整理の基本というものを、ボクは 「鉄道ファン」 という雑誌から自然に学んでいたんだな、と今になって思う。それが今の生業に繋がってるわけだから、880円/月の費用対効果は非常に高かったと言えるかもしれない。)


寝台列車に24時間ゆられて九州まで。活動エリアが自宅の半径5キロ以内だった小学生時代、それは夢のような話だった。そう、ブルートレインは男の子の 「ロマン」 なのである。

大人になるにつれ、それはだんだん忘れてしまったし、たいしたことではなくなってしまったのだけど、一度ぐらい乗ってみたかったな……と今さらながら思う。結局、ブルートレインらしきものに乗ったのは、大学受験した年に急行 「銀河」 に乗って京都に行ったくらいだ。


(3/13の 「富士」 最終列車は発売後10秒で売り切れたそうです)


あー、やばい。ソワソワする。
13日の金曜日、18時。一眼持って東京駅10番線ホームにいそうな気がする。
「ありがとー! お疲れサマ~!」 とか言いながら、汽笛に涙してしまいそうな予感もする。
(偶然見かけても声かけないでください)

2009年02月01日

痕跡

日記 2009

高校の2年から3年にかけての2年間、チャリで高校まで通っていた。元はといえば、親からもらった定期代をちょろまかし、小遣いに充てたのが始まりだった。

高校は隣町の下館市 (現在は筑西市)。片道13キロの道のりだったが、試しに2~3日、チャリをこいで通ってみると、電車&徒歩と時間は変わらない。多少辛いが、使い込んでしまった定期代は戻らない。無い袖は振れないわけで、それから毎日チャリで通学することになった。

スポーツタイプのチャリではなく、ギアもないただのママチャリ。往復26キロ、毎日が筋肉痛である。夏なんて、学校に到着しても1時間は汗が止まらないし、冬は冬で、赤城おろしの西風の日の帰り道はは完全に向かい風。普通45分しかかからないのに、西風の強い日は1時間半もかかったものだ。

筑波山1

最初は面倒臭いなぁという気持ちが強かったが、だんだん 「チャリのスピード」 にハマっていく自分がいた。高校時代のボクは、退屈な田舎が大キライだった。はやく都会に出たいという気持ちが強かった。こんな田舎はゴメンだよ、と毎日思っていた (その気持ちは今もあまり変わっていない)。だけど、チャリ通学のおかげで田舎の自然が大好きになってしまった。

チャリのスピード。歩くより早く、クルマより遅い。そのスピードで移動すると、見えないものが見えてくる。ボクの脳のクロック数にも合っていたのかもしれない。クルマや電車のスピードでは見落とす景色が、チャリのスピードでは見えてくる。梅の花が咲いたとか、稲の穂が出たとか、そういう自然の移ろいを、ビジュアルとしてだけではなく、空気の温度や匂いでも感じることができる。しかも田舎だから、季節感は満載である。

新緑の緑は強烈なくらいキレイだし、冬の夕焼けの美しさも、見たことのある人間にしか分からない感動だったりする。刻々と変わる筑波山の色、新緑の匂い、秋の風。田植え時期の田んぼの景色は壮観である。見慣れた道路が、まるで湖の中の一本道のようになる。そこに筑波山の峰が映りこむ。なんともいえない美しさだった。今になって思い起こせば、高校時代の記憶は、すべて美しい茨城の風景に包まれている。街の中央に川が流れる街。そこでボクは10代後半の数年間を過ごしたのだった。

今、チャリが流行っているけど、彼らがチャリにハマる理由に、今まで気づかなかった身近なことへの 「気づき」 もあるんだろうなあなんて思う。

筑波山2

そんな高校時代も、もはや20年前。

実家に帰るたび、オヤジのクルマを運転して高校の周りや当時の通学路をたどってみたりする。当時、チャリで500往復ぐらいはしたわけだから、国道の縁石やアスファルトの継ぎ目さえ覚えてる。そんなのをただ確認して戻ってくる。国道の景色もさほど変わっていない。高校の校舎も昔と同じように佇んでる。でも当時いた先生も生徒も今は1人もここにはいない。あたりまえなんだけど、不思議な気持ちになる。大好きだった2年生の時の髙橋先生は、昨年定年退職したそうだ。
時間というのは、ある意味冷酷だなぁと思う。



高校までの通学路から少し入ったところに、2歳半まで住んでいた社宅があった。現在の家に引っ越してくるまでわが家族が住んでいた、オヤジの会社が所有するアパート。鉄筋コンクリート4階建てのおんぼろアパート。高校時代、近くを毎日通っていたのに、一度も覗いてみたことはなかった。

正月のある日、近くを通る機会があって、その社宅を見に行ってみた。自分のルーツを確認したい、という想いが最近、時々押し寄せてくる。見たいような、見たくないような……。「怖いもの見たさ」 な感じもあったけど、思い切ってその社宅へと続く道へハンドルを切ってみた。

すでに取り壊された、という噂をオヤジの元同僚から聞いていたものの、何と!わが家族の住んでいた建物はまだ存在していたのだ!

布川アパート

昭和48年。2歳半まで住んでいた社宅。39年前の最新鋭住宅は、すっかり廃墟になっていた。もう誰も住んでいない。取り壊されるのをただ待つだけの建物には哀愁が漂っている。無機質な、コンクリートの塊に 「哀愁」 があるっていうのものも不思議なもんだが、自分のルーツの場所である、ということを取り去っても、確かに哀愁が漂っている。「人が生活した痕跡」 には魂を揺さぶられる何かが存在するのだ。
ちょっとだけ廃墟マニアの気持ちが分かった気がした。

両親に確認してみないと分からないが、おそらくボクらは3階に住んでいた。2歳半までしか住んでいなかったはずなのに、不思議とけっこう記憶が残っている。

玄関と台所の位置関係。子供用の椅子にボクが座って食事をしようとしている光景。父親が 「ただいま」 と帰ってくる姿。北側の窓とその前に置いてあった4本足の白黒テレビ。ある時、ピンポンパンを見ているときにテレビが壊れて、表示エリアがブラウン管の中心5mm×3mmぐらいに縮んでしまったこと。べランダから見える、前の工場の煙突と、洗濯物を干している母親の姿。雨の日、ライナスの毛布と同じぐらい大切にしていたピンクの熊のぬいぐるみを北側の窓から落としてしまったこと。そして、駅の向こうの工場から時々漂ってくるコンクリート臭。

1階の窓から内部を覗いてみると、スケール感こそ違っていたが、間取りはボクの記憶と間違いなく合っていた。

布川アパート

29歳の父親と25歳の母親と、生まれたばかりのボクが確かにここで生活していた。他の、若い家族たちも高度成長の真っ只中、将来の幸せを夢見て日々の生活を営んでいたはずである。たくさんの 「生活」 がここにあったはずなのに、今は何もない。父親の世代はとっくに定年退職してるし、もう他界した人もいるだろう。

役目を終えた社員住宅。残っているのは、人の痕跡だけ……。
意外と人生って短いんだなあという感慨を、幼い頃の住処から受け取って、クルマのエンジンをかけた。


さて、38歳になる。

布川アパート

2008年11月19日

「触感」 だ?

日記 2008

「富士山」 ナンバーができたらしいですね。
そんなコトバが、あるメルマガの冒頭文になっていた。しかも、人気の番号は 「37-76」 なんだって。

ヘンだよ、そんなの。
うちの実家の近所も 「つくば」 ナンバーになったのだとか。
「土浦」 のほうが、文字どおりドン臭いかんじがしてよかったのに……。

で、また二子玉川駅写真。

富士山


快晴の朝、このホームはとてつもなく気持ちがいいのだ。朝日をキラキラ照らす多摩川の流れ、丹沢の山並み、そして白い帽子を被った富士山。この風景に何度も救われてる。

で、気がつくと、このホームで、このアングルで (しかも 「こっそり」 ) 写メってる人が、意外と多いのだ。

ちょっと前にデザイナーズウィークを見に行ったとき思った。「触感」 をテーマにしてる作品が多いなと。
ふわふわの~~とか、触れる~~とか。

つまり、リアルな感覚に飢えてる人、多いんじゃないかなぁと思う。五感をじかに使って 「感じる」 かんじ。目で直接対象物を見る感覚、手で直接触れる感覚。そういうものが生活の中で少ない、というか、欠乏ぎみなのかもしれないな。うん。

2008年11月13日

10月の断片

日記 2008

気がつけば11月なのである。

……という書き出しって、何かに似てる、と思ったら、知り合いのM氏のブログだった。久々に覗きに行って、ポール・ニューマンが死んだことを知った。(しかも、1ヵ月以上も前の話だ。)

そうか、アンタも死んでしまったのか。と思う。有名人よく死ぬね、最近。
ということで、しつこくもう一度見てみましょう↓。

やばい、やっぱりかっこいい。


満足感も達成感もないまま今年も終わってしまうのかと思うと、なんだか萎える。
なにか一つは達成して、ごほうびに腕時計を買いたいなと思いますが、どうですかね? ヒヒヒヒヒ。
ということで、2008年10月の断片。


10月初旬。

徹夜明けの午後、オフィスを出ようとすると、おつかいから帰ってきた後輩の女の子とすれ違う。
まじまじとおれの顔を見た後で声をかけてきた。

「あのー、ハシモトさん、言ってもいいですか?」
「『言ってもいいですか』 って、いいよ。
 っていうか 『ダメです。』 って言っても言うでしょアンタ」

「えっとー、…………ハシモトさん、老けましたね。」

えぇーーー!!!
「溜め」 をつくったうえに 『老けましたね』 はねぇだろう。
な、なんてんて 『鋭利』 なコトバなんだ!

歯に衣きせぬ言動で周囲をあわてさせる彼女の言葉。というのは分かっているのだが、が、それでも、
言われたおじさんは打ちひしがれるばかりなのだ。
「ハシオさんさあ、カンロク出てきたよね」 と同僚にも言われるし。
なんだかなー、の37歳と8ヶ月。

コスモス@千葉


その週末。
ひさびさ映画を見た。

人のセックスを笑うな

何の予備知識もなく見たけど、心地よかったのは、舞台が北関東だったからだろうか。
(なんで最近、北関東舞台の映画が多いのだろう?)
思った通り、監督は女性だった。長撮りのカメラワークが絶妙です。

それにしても、蒼井優の演技は 「眩しい」。
というか、地方にある美術大学が舞台 (ロケは女子美?) なのだけど、「そうそう、美大ってこういうかんじだったな」と思いつつ、ついこの間だと思ってるのに、よく考えると遠い昔になりかかってる学生時代の記憶にちょっと切なくなった。

フレッシュネス会議室


はたらきたい
ほぼ日刊イトイ新聞

うまく本にしてやがんなーと、ちょっぴり負のイメージを抱きなから読み始めるのに、止まらなくなる。名コピーライターの魔術に小市民は軽々と乗せられるのだ。後半の矢沢栄吉の話はすごく、カッコいいです。

これ読んでて思ったけど、おれは学生から社会人になる時、いわゆる 「ちゃんとした就職」 をしなくてよかったなと思った。なんとなく、それとなく就職してたら、たぶん今頃、いろんな不満をいろんな人にぶつけて、人のせいにしてたと思うから。


10月中旬。
社員旅行で初島に行った。伊豆半島、たぶん今まで30回以上は行ってると思うんだけど、初島って盲点だった。魚がうまい。ところてんも美味い!

初島のところてん


そうか、もう君はいないのか
城山 三郎

そうか、城山三郎もいつのまにか死んでしまったんだ…。
城山三郎と柳田邦男 (国男ではないです) の、いわゆる経済小説は、中学時代のボクの愛読書だった。

チームで最高の製品を作り出して、世界へ打って出る。寝る暇も惜しんで仕事に没頭する。そういう、昭和の日本企業神話を読んで、早くそういう中に飛び込みたいと思った。今、自分の中で持っている「働くこと」 への意識というのは、少なからず彼らの文章の影響があると思う。

時代は変わったし、日本は 「終った」 し、当時読んだ本の主人公のような環境はもうないし、自分もそういうところには属してない。でも、ああいう成功体験をしたいなと、いつもどこかで憧れとして持っているんだなと、最近思う。

それにしても、奥さんが死んでしまってから、城山氏は見る見る弱ってしまったという。この文章は、彼の死後、彼の娘が書籍としてまとめたらしい。弱ったかんじが、文章の隅々から感じられる。まるで別人の文章かと思うくらい。


潜水服は蝶の夢を見る

色がキレイな映画。これ必見です。実話を元にしているらしいのだけど、ハリウッドで作られる予定もあったという。でも、フランスで作られて本当にヨカッタ。脳梗塞で倒れ、左目のばばたきしかできなくなった人 (VOGUE誌の編集長だったらしい) の話。唯一の意思表示の手段である、「まばたき」 だけで、本を書くんだよ。壮絶な話です。

TDW2008

長い影


10月下旬。

悪者見参~ユーゴスラビアサッカー戦記
木村 元彦

秋になると、またバルカンを旅したいなと思う。「うかれてない」 ヨーロッパ、影のある欧州。黄色い落ち葉を踏みながら歩きたい。

子供の頃エレクトーンを習っていた。「ドナウ川のさざなみ」。そんな曲が練習曲としてあった。哀愁のあるメロディだった。ドナウ川ってどんな川なんだろう? そんな子供の頃の記憶があったから、ベオグラードでの超・短い滞在時間の中で、ドナウ川だけは見に行かなくちゃと思った。去年の旅での話。

サラエボへのバスが出るまでの数時間。埃っぽい、グレーな印象の街をスタスタ歩いて、スターリ・グラードの丘に行って、ドナウ川を眺めた。決して明るくない、流域の人々の歴史や想いも流れてる川なんだな、と思えたのは、季節が秋だったからという理由だけではないだろう。あのメロディの物悲しさの意味が分かった気がした。

ボクは、サッカーには明るくないのだが、オシムがサラエボ出身だということぐらいは知っていた。そういやぁ、夜行列車から外を見てると、やけにサッカーコートが多い。ナイター照明に照らされて、子供たちが実に熱心にサッカーをプレーしている光景を何度も見た。「そうか、ユーゴスラビアって、サッカーの国だったんだ」 と分かったのは旅から帰ってきてからのこと。

サッカーという切り口で旧ユーゴスラビアの民族問題を眺めると、急に身近な話に聞こえてくるから不思議。

ベオグラード


11月。

急激に寒い。
昨日までだらだら汗を流してたのがウソのようだ。でも、この季節の濃密な空気が実は好き。
週末に自由が丘で買い物してたら、こたつぶとんが飛ぶように売れていた。もう冬ですね。

2008年11月07日

東京マラソン

日記 2008

落選


2008年09月27日

ハンカチひろし

日記 2008

「~vol.1」 とかタイトルをつけたエントリーは、たいてい次に続かない。シルクロードのレポートも気分が向いたらとなります。

ということで、すっかり秋になったのでブログ再開。
この夏ほど汗をかいた夏はなかった。小学校以来、ハンカチを持った記憶のないオレでも、今年ばかりはハンカチを欠かさなかった。しかも毎日ちゃんと洗濯ずみのものをキッチリ折って。

しかしあれだな、こんなに汗をかくというのも、オヤジになった証拠なんだろうか。田園都市線の中で汗が止まらなくて、それだけで毎日疲労困憊。つり革につかまって身動きとれずにジーっとしてると、汗が目に入る。剣道部の夏の稽古を思い出す。「どうして隣の女の子は長袖を着てるのに汗一つかかないんだ…?」 そう思う機会多数。「ははーん、オレ 『が』 汗かきすぎな訳だ。」 と気づいたのが、アブラ蝉のくたばりはじめる8月後半。甚だ不愉快な、この夏の 「発見」 である。

涼しくなって、電車も快適になってきたので、読書も再開。

白洲次郎~占領を背負った男
北 康利

歴史上、いろんな偉人がいるわけだが、白洲次郎って人はあんまり出てこない人。(おれが知らなかっただけかも。) でも、白洲正子の旦那といえば分かるでしょう。戦前、戦後と吉田茂のとして仕え、戦後はGHQとの交渉役だった人。

男はやっぱりかっこいい男にあこがれるわけで、オレ的ランキング、2位。
鶴川街道ぞいにに彼の住んでいた家があります。彼は無類のクルマ好きで、英国留学時はベントレーとかブガッティとかでレースをしていたそうだ。晩年はポルシェ911に乗っていたらしい。

ゲバルト時代~SINCE1966-1973 あるヘタレ過激派活動家の青春
中野 正夫

昔、学生運動をやっていたというおじさんにインタビューをしたことがある。彼の話を聞いて、「その時代に生まれてたら、自分も染まってただろうな」 と思った。そんなこともあって買ってしまった本なのだが、当時活動家だった人が書いた本。最近この手の本が多いような気がするが、時効だっていう意識になってきたんですかね? やっぱり人は自分の生きてきた証を、ある時点で残したいと思うものなのだろうか。

「 『自由に書いていいよ』 と編集者から言われて書き始めた」 、と書いてあるが、本当に自由に書いたっぽくて面白い。当時の活動家の普段の姿から時代背景が透けて見える。活動に参加する66年から、普通の生活に戻る73年までの6年間。ご本人は客観的に 「あれは 『革命ごっこ』 であった」 と言っているが、右であろうと左であろうと、権力抗争であろうと 「ごっこ」 であろうと、この世代の人たちは、よく勉強をして、国の理想を真剣に考えていたなと思う。素晴らしいですよ。今、そんな人いなもん。

鴨川ホルモー
万城目 学

絶品。

京都の土地勘がある人はさらに面白いです。森見登美彦も京大卒、万鬼目 学も京大卒。
京大ってすごいな。っていうか、京都って土地がこういう逸材を育てるんじゃないかと思う。

2008年07月21日

シルクロードツーリング・第3章(1.プロローグ)

日記 2008

帰国して一週間。
東京の蒸し暑さは、カザフやウズベク、中央アジアの、「破壊力満点の暑さ」 をも凌駕していた。帰国の翌々日から始まった腹痛、久しぶりの 「熱帯缶詰」 通勤電車、帰国後5日目に気づいたビデオカメラ (しかも買ったばかりのハイビジョン!) の紛失、そんなゴタゴタからやっと這い出したというかんじである。

ビデオカメラの紛失は痛かった。っていうか金曜日まで気づかないオレはどうかしちゃってる。成田から家までクルマで送ってもらって、荷物を降ろすためにひょいと郵便受けの上にビデオカメラを置いて、しかも5日間もそれを思い出しもしなかったなんて……熱で頭がヤラれてしまっていた、 としか言いようがない。諺にあるとおり、「家に帰るまでが遠足ですよ!」。はい、その通りです、先生!

シルクロードツーリング・第3章(プロローグ)


1.プロローグ

「旅」、と言い切るには若干照れくさい。
オートバイはもとより、今日の行き先も、今夜のホテルも、三度の食事だって、すべて旅行会社がお膳立てしてくれたものだ。

でも、
毎日毎日、一つの仕事をしているフリをしていても15分に一度は強要される、メールやチャットやケータイメッセージへの返信……そんな普段の生活に比べれば、この旅行も十分に 「非日常」 であり、 「旅」 である、と言えなくもないだろう。

シルクロードツーリング・第3章。
2年ぶりの今回もやはり、徹夜明けの成田から始まった。騒がしくて全然相手の声が聞き取れない、成田エクスプレスのデッキで電話をし、席に戻ってはPCをたちあげて何本かメールを送り、空港でポストを探して請求書を出して、「いやいや、すみません」 と、すでに全員集合 (!) しているオジサマたちに頭を下げる。

「んー、でもまだアレ終わってないんだよな……」
まだ、やり残した仕事が頭をかすめる。とりあえず、2時間、仁川 (インチョン:ソウル) まで寝ようと決める。

しかし、毎度毎度、「きっちり仕事を終わらせてきたぜ!」 的な、『切り替え済み』 の涼しい顔をしているオジサマたちには頭が下がる。ボクはといえば、すべてが片付いて飛行機に乗れたことは、いまだかつて一度もない。

今回は、ウルムチからスタートし、ホルゴスの国境を越え、カザフスタンを通りウズベキスタンのタシケントへ。初めて中国の国境を越える。


<a href='http://eyevio.jp/movie/142537'><img src='http://eyevio.jp/_images/i/i6/i681165c22970763ff892586d412b12e/142537/nogzpishtksotppfxkmm_w1.jpg' />silkroad2008-01_route312-03</a>


今回の終着地、タシケントのホテルで書いたメモ
新彊ウイグル自治区のウルムチを出て8日間、中国のホルゴス国境、カザフスタンのアルマトイ、シムケントを経てウズベキスタンのタシケントに着きました。約2400キロ。容赦なく照りつける太陽と乾き、抜けるような青空と、地平線まで続く草原。そしてオアシスの風に吹かれるポプラの葉。ホコリと汗にまみれた旅でした。

混沌とした国境を越えるとカザフスタン。そこはもう欧州の香りのする土地でした。人々の顔立ちも、食べ物も、そして運転のマナーまで……。デタラメだけど、言いようのないパワーにあふれた中国とは、また違った雰囲気の漂うアジア。日本に帰って、写真を見せて説明をしても、「何が楽しかったわけ?」とみんなに聞かれるでしょう。でも、この空気と、においと、色の記憶は、何物にも変えられない宝物になるだろうと思います。次回は、このタシケントがスタートです。


この、タシケントまでの11日間の過酷な (?) 旅が始まる。
その昔、西域を目指したたラクダのキャラバンよろしく、ヤマハ製の 「ひとこぶラクダ」 に跨った、奇妙なコスチュームの8人が、アジアの十字路・タシケントを目指す。

2008年06月12日

スタンプ帳 vol.2

日記 2008

スタンプ帳 vol.1


1ヵ月後のシルクロードツーリングのために、パスポート更新をした。はえーな、もう10年かよ!

28歳、遅すぎる海外デビュー。会社があった大井町の古びた写真屋で写真を撮り、有楽町に申請に行ったのが昨日のことのよう。パラパラめくってみると一つ一つの渡航が思い出されてくる。少ないけどね。

生まれて初めて見た外国の街、シアトル。入国審査のヒゲのおじさんの顔は今でも思い出せる。小林克也の 「アメリ缶」 で覚えた 「入国のときのフレーズ」 を、狭いシートの中でひたすら暗記したっけ。

「飛行機を降りる瞬間、必ず独特の匂いがするんだよ」 と旅行会社に勤める友人に言われ、ドキドキしなが降り立ったホノルル。今となっては懐かしい 「喫煙し放題」 のローマ・フェミチーノ空港。目つきの悪い西安の入国審査官。そして夜行列車でウトウトしかけた午前2時、いきなり車掌に叩き起こされたブルガリアへの入国……。暗いプラットフォームで1時間、入国審査のために待たされた。たまたま前に並んでた10歳ぐらいの男の子が、おもむろにポケットからガムをとりだしてボクにくれた。こともなげに、あくまで自然に。日本ではすっかり無くなってしまった光景にちょっとだけびっくりした。たった10歳の彼が、すごく大人に見えた。

初めてのパスポートは、「第1巻」。汽車の絵のついた、キリル文字のスタンプが宝物だ。


で、来月シルクロードを旅してきます。
「旅する」 と言ったって、旅行会社に企画してもらった旅行なのだけど、まるで想像のできない土地なので、未知なるものへの期待値は否応なしに高くなる。ウルムチから入って国境越え、カザフスタンを抜け、ウズベキスタンのタシケントへ。カザフに入ってからは、ヤマハのTT250に乗れるらしい。ただし、台数が少ないので、じゃんけんに負けたら、ロシア製 「ウラル」 というバイクだという。文字どおり 「ロシアン・ルーレット」 だな (笑)。今回はきっちり、ダートコースもあるらしい。


しかし、オリンピック1ヵ月前の中国はどうなってるのだろう?


中国は日本を併合する 平松 茂雄

最近読んだこの本はかなりショッキングな内容だった。時の中国首相、李鵬は、95年に行ったオーストラリア首相との会談の中で
「日本なんて国は、20年もしないうちに消えてなくなってしまう国だ」
という発言をしたという。ボク自身はこのニュースの事を知らなかったのだが、
あながち無いことでもないな、と思った。「中華思想」 という言葉がよく使われるが、それが実践として今も着々と進められている事実を知ると、経済大国ボケした (しかも、すでにかなり斜陽な) 日本という国がどれだけ能天気か、ということを思い知らされる。
ま、そういう国に生まれたんだから、諦めるしかないけどね。


更新手続きからオフィスに帰り、戻ってきた古いパスポートを同僚に見せたら、写真を見るなり大笑いされた。

「誰これ?」
「えっ?そんなに変わりましたかね、オレ?」

少年の面影 (笑) は、すでに過去のものだ。

新しい10年、第2巻が始まる。
次の更新は何と!48歳。
ちゃんと生きていて、日本国という国がまだ存在していれば、第3巻に書き換えができるだろう。

2008年06月05日

ワイアード日本語版

日記 2008

ワイアード日本語版


つくづく、世の中って狭いな、と思う。

最近、ある編集者と会った。帰りの電車の中で、「ワイアード日本語版って知ってます?」 みたいな話になって、
「知ってるも何も、デザイナー募集に応募して、見事蹴られましたよ。」 って話をしたら、その方なんと! 元・ワイアード日本語版の編集者だった。

「ワイアード日本語版」 はボクのデザイン活動の原点である。

建築学科を出たけれど、バブル崩壊の煽りで就職もままならず、フリーターをしていたボクを突き動かしたのは、この雑誌だった。
「やばい、デザインって、こんなことが出来るんだ!」
「経験は全くないけど、雑誌のデザインってやつをやってみたい!」

そう思って、友達から買ったMacintosh LCIIIで、架空のクライアントを想定してデザインを作り、それをポートフォリオだと言い切って、初めて 「それらしい」 会社に応募したのが同朋社出版 (DDPデジタルパブリッシング) のワイアード編集部。

あっさり 「誠に残念ですが…」 の回答が来ましたけどね、あはは。それが95年の12月。90年代に流行っていた音楽と、編集部に作品を持ち込んだ時の駿河台の、キーンと張り詰めた、冬の冷たい空気の記憶と共に思い出される。懐かしいなぁ。

その後、あるデザイン事務所に拾われて、Quadra950でIllustratorを覚え、Quarkを覚え、泣きながらPhotoshopをマスターし、程なくWebの世界を知る……。だから、当時欠かさず購入していたワイアード・日本語版は今でも捨てられない。ボクのルーツだからな。

はぁ、あの頃の熱意を今も保っているんだろうか?>オレ

……そんな出会いがあって、久しぶりに当時の 「ワイアード」 を本棚から引っ張り出してきて、ペラペラめくってみたら、これまた何と! 今、一緒に仕事してる人が記事を書いていたり、インタビューを受けてたりしていてびっくりした。記事を書いてるエディターの中にはボクの師匠の一人もいる。

本当に世の中は狭い。

2008年05月31日

5月の備忘録

日記 2008

2008053101.jpg


雨ばっかりの5月の記録。

1.俳優やりました

……といっても自主制作映画。しかもホームレス役。やる人いないよね>ホームレス。
でも、俳優という職業をとても尊敬するようになった。台詞を暗記するなんて、オレにはできない。
某日・某所でロケ。特殊メイク経験は、貴重だったかも。

lorigami.net


2.読書ログ

4月~5月分

デザインの輪郭 深澤 直人 (★★★)
「ひきこもり国家」 日本~なぜ日本はグローバル化の波に乗り遅れたのか~ 高城 剛 (★★)
日本の繁栄とは何であったのか~私の大正・昭和史~ 林 雄二郎 (★★★★★)
情報化社会 林 雄二郎 (★★★★★)
「空気」 の研究 山本 七平 (★★★)
不機嫌な職場~なぜ社員同士で協力できないのか~ 高橋 克徳 ほか (★★)
中国はいかにチベットを侵略したか マイケル・ダナム (★★★★)

ついでに1月~3月分

ミニヤコンカ奇跡の生還 松田 宏也 (★★★★)
246 沢木 耕太郎 (★★★)
新釈 走れメロス 森見 登美彦 (★★★★★)
有頂天家族 森見 登美彦 (★★★)
芸術の神様が降りてくる瞬間 茂木 健一郎 (★★★★)
戦場でメシを食う 佐藤 和孝 (★★★★★)
いつも旅の中 角田 光代 (★★)
さよなら、日本 柳原 和子 (★★★★★)
「在外」 日本人 柳原 和子 (★★★★★)
ドラマで泣いて、人生充実するのか、おまえ きつかわゆきお (★★★★★)


3.「響いた」 こと

a.林 雄二郎

ボクの師匠の師匠。40年前に今の世界を的確に予言している。
情報化社会」 は必読です。

b.村木 良彦

あの時だったかもしれない
~テレビにとって 「私」 とは何か~

↑メディアプロデューサー・村木良彦に関するドキュメンタリー番組。ディレクターは是枝 裕和。

こういう先人たちの 「想い」 を残そうとしている人がいる……。
終わってるメディアだ、と馬鹿にしていたテレビ業界を、少しだけ見直した。
「街頭録音形式で21の同じ質問を次々と一般の人にぶつけて行くという斬新な方法」 は
十分今でも斬新だと思う。最初の20分見逃したので、再放送してくれないかな?

c.ラーメン屋の中国人おばちゃん

「四川大地震募金」 の箱にお金を入れたときの、おばちゃんの 「ありがとねー」 という言葉と笑顔。ちょっと照れくさくて、あれからラーメン屋行けてないけど。


4.モナコGPの中継でたくさん見かけるブルーフラッグを見て思ったことメモ

「フェア」 とは、「平等であること」 を言うのではない。
相手の状態を理解する、ということが 「フェア」 ということである。


5.アイデアを思いつく場所2008

・2度目のシャンプーをしているとき。
・電車の中。
・ジョギングで5キロを過ぎた時。


6.判明したこと

軽い椎間板ヘルニアらしい。きっかけはアレだな、2月のスノーボード (7年ぶり) でのジャンプ失敗。歳を考えろ!>オレ


7.うひひ

古いやつだけど、またアルファロメオがやってくる。今度は左ハンドルのV6。


2008年05月11日

フリーチベット

日記 2008

フリーチベットデモ@東京(2008/5/6)


ちょっと前に団塊の世代のおじさんにインタビューをしたことがある。たぶん今年60歳だろう。学生運動の真っ只中にいた人だ。

ちょっと古びたカラーのフィルム映像で見るデモや集会の映像。その後ろにはフォークソングがBGMとして流れる。……その時代の直後に生まれたボクは、学生運動というものを、当然ながらリアルタイムでは知らない。そのおじさんへのインタビューでは、「革マル」 の意味や、デモの時のヘルメットの色分けのことなど、初めて知ることばかりだった。渦中にいた彼の口から出てきた言葉は、その日常を生きていた、当時の若者の気持ちを克明に描き出しているものだった。

「当時の学生たちを、学生運動に駆り立てたものって、いったい何だったんでしょう?」 という、ボクの見当違いかもしれない質問に、彼はこういう言葉できりだした。

「んー、あれはねぇ、あの当時の時代背景もあるんだけど、ある意味 『お祭り騒ぎ』 の一面もあったんじゃないかと思うね。」


連休の最終日、文字どおりの五月晴れ。空はどこまでも青い。
チベット国旗を朝あわてて印刷してボードに貼り、1時間前に日本青年館に着くと、すでにいくつものチベット国旗がひるがえっていた。「集会」 も 「デモ」 も生まれて初めて。

集会冒頭での、呼びかけ人・牧野氏の挨拶はものすごく語気が強くてびっくりした。「そうか、集会ってのはこういうものなんだ」 と思う。在日チベット人、在日ウィグル人、在日モンゴル人、そして天安門事件以後、日本に亡命して中国の民主化を訴え続ける中国人、この会場に集まった人でも、彼らの実情をちゃんと知ってる人は少ないんだろうなぁと思う (自分もそうだ)。これは聞かないと分からない。

集会の様子

例えばウイグル人。まず、子供たちは学校でウイグル語での教育を受けることができない。自分たちが使う言葉での教育ができないということは、民族の終わりを宣告されるようなもんだ。また、16歳~25歳のウイグル人女性は強制的に中国湾岸部で働かされる。その間、家族との連絡さえできない。

なんてことだ! ウルムチもカシュガルも過去2回、この目で見てきたはずなのに、そんなことは微塵も感じなかった。観光旅行では 「見て」 いるようで、「何も見えてない」 わけだ(唖然)。

「私たちは、『少数民族』 や 『二級』 市民ではありません。チベット人なのです。」
少したどたどしいけど、しっかりした日本語で訴える在日チベット人代表の言葉に、大きな拍手が巻き起こった。


デモ。
結局4200人が参加したらしい。確かにすごい数だった。最後列から見た様子は壮観でさえあった。日本青年館から外苑前、表参道を抜けて代々木まで。沿道の人々の目は、あたりまえかもしれないけど冷ややか。「何騒いでんの?」「信号2回も停められて迷惑!」 的な反応。

まあでも、ともすると自分だって向こう側なわけで…。その気持ちも分からなくはない。4200人 「も」 デモに参加したけど、じゃ、どれだけの人に 「響いたか?」 と考えると意外と少ないだろうなあと思う。もちろんテレビで大きく扱われたというのは効果が大きいと思うけど、多かれ少なかれ歪曲されて伝わってると考えたほうがいい。

文脈があって結論がある。結論だけを突然見せつけてもなかなか納得されないことって多い。「文脈」 を伝えることの重要性と難しさをいつも感じる。チベット問題に対する人々の意識の 「うねり」 を、単なるお祭り騒ぎに終わらせないためには、「文脈」 をきちんと広めることが必要なのだなと思った。この問題に 「気づく」 きっかけを作ってくれたのは、「命がけ」 の僧侶たちだったわけだから。

どこまでも青い空に、タルチョと同じ色合いの、きれいなチベット国旗がたくさんひるがえっていた。


おまけ
前に紹介した 「チベットチベット」、上映会が各地で開催されてます。
http://www.tibettibet.jp/

2008年05月07日

本当に残念…

日記 2008

スーパーアグリF1撤退
http://www.saf1.co.jp/ja/topics/2008/nws_080506.html

2008年04月20日

人間メッキ

日記 2008

0時32分発の終電。
家に着いたら2秒でシャワーに入ろうと決意する。なにせ3日目だ。シャワーを浴びるという快楽を想像すると、駅から道のりも早歩きになる。

前を歩いてる女の子。
当然ボクより歩く速度は遅い。彼女の正面前方を0度とする。ボクが彼女の135度以内に入る (つまり彼女から見て20時の方向に近づく) と彼女は故意に速度を緩める。女の勘を駆使し、後ろを歩いてるのが男だと察知すると、自然に追い越しをさせようと自分の歩くスピードに調整をかけるわけだ。古今東西 (かどうかは知らないが)、夜道の娘は必ずその技を使う。

「おじさん何もしないって。」

ただ、ニオイの暴力を加えないように、最大限遠くを、そして巻き込み風を起こさないようにゆっくりと抜き去る。

……なんか、自分にまとわりついたこのクサイのって、メッキに似てるなあとふと思った。
メッキ。内部の金属をサビから守るために、電位差などを利用して表面に錆びない金属皮膜を作る方法。

メッキかあ。じゃあおれ今、ペプシマンみたいな状態なんだな。
と、風景が映り込むテカテカのペプシマンを想像してみた。


家に着き、シャワーの栓をひねった瞬間、中学生のときに聞いたラジオ番組がフラッシュバックした。

AMラジオだ。たぶんTBSだろう (954キロヘルツ)。夜の番組だろうか?

五木寛之だったような気がするんだけど定かではない。まあ、彼に類するような大御所の作家だろう。彼がインタビューに答えていたのを聞いて、純粋な中学生であったボクはこれまたびっくりするのだ。

「人間はね、清潔にしすぎちゃいけないと思うんです。」

作家といえば……、灰皿に山盛りになった吸殻、何日も洗ってないフケだらけの髪の毛、体臭を整髪料の香りで隠そうとしてるけど体臭と整髪料の香りが入り混じった、さらにくさいニオイをふりまく、ロマンスグレーの (でも薄汚い) おじさん。そういうイメージ。

それの言い訳かなとボクは思った。でも主張を正当化するかのように、彼は他の動物での事例を展開したじめた。作家らしい話の進め方だ。 (ただ、その動物が何だったかはっきり覚えてない。ここでは仮にウナギということにしておこう。しかも科学的根拠があるかどうかも定かではない)

「ウナギね、ウナギいるでしょ?
ウナギの皮膚って、表面がヌメヌメしてますね。あれをきれいさっぱり洗い取って 『清潔』 にしてみたとしますよね。そうするとウナギって死んじゃうんですよ。」

「まじか?」(←オレ)
「そうなんですかぁー (びっくり)」(←インタビュアー)

「人間もね、動物である以上、それに似た部分があるんじゃないかとボクは想像するんですね。皮膜みたいなもんですかね、それを取り去らないほうがいいと思うし、皮膜をちゃんと残しておくことが人間の本来的な姿なんじゃないかと思いますけどねぇ。」

で、オレは石鹸を使わないとか、たまにしか風呂に入らないとかいうウンチクを言ってたような記憶だ。

だからオレは大御所でいられるのだ

といわんばかりの彼の論法に辟易したのだが、それでも、ウナギのヌメヌメを洗いとっちゃうとウナギは死んでしまうという話はボクの中では、ちょっとした 「驚き話」 で、ずっと頭のどこかに残ることになる。


……ちょっと待てよ、ひょっとしてこの (不潔エキス電着) 状態を保って、カラダは洗わないほうがいいのかも。ちょっとだけそう思った。なんかステキなアイデア、ないしは思いもかけないような希望に満ちた才能が、ボクのカラダの中で熟成の時を待っているのかもしれない。今、せっかく醸成された 「皮膜」 を洗い流してしまうのはもったいないのではないか?

だがしかし、そんな幻想 (いや、妄想) はシャワールームのドアを閉めた1秒後、3日目の靴下を脱いだ瞬間に、もろくも崩れ去ってしまう。

クサイ。マジ・クサイ、オレ。
ついでに頭もかゆいし、手はなんか黄緑色だし、顔は何度ゴシゴシしても毛穴がつまってるかんじだし……耐えられず、やっぱりシャワーを浴びた。至極きもちがよかった。
そうやって凡人は凡人に磨きがかかるのかもしれないですね。>ラジオの大御所先生


はーくだらね。

そんな話を同僚としてたら、同僚が面白い話を聞かせてくれた。

マンガ家。
そう、マンガを描くマンガ家は、シナリオのアイデアが浮かびきるまで、風呂には入らないんだそうだ。ずっと火燵で半纏着て、風呂にも入らず、アイデアを考える。風呂に入ってカラダをキレイにするとアイデアが逃げたり、洗い流されてしまう、というようなことを本気で信じる人が多いらしいのだ。

うーむ、やるな>ラジオの大御所先生
どうやらあなたの言うことは、間違ってないようです。

2008年04月15日

若葉の季節に想うこと

日記 2008

2008041501.jpg

この時期の、透けるような若葉が好きだ。

週に数回お邪魔する青山一丁目のオフィスからは、赤坂御所の緑がよく見える。7階というのは、ボクが今まで働いた幾多のオフィスの中で、たぶん一番高い階だろう (ショボ…)。その7階のオフィスの小さな窓から見下ろす都心の緑は、実に表情豊か。雨が降り、やがて太陽の光がさしてくると、雨以前とは全く違った風景が浮かび上がってくる。太陽と雨と太陽、そのサイクルのスピードが、この時期は一年中で一番速い。日に日に、本当に朝と夜とでも緑の具合が変わっていくのが分かる。

ずっとパソコンの画面を見ていて、ふっと顔を上げて窓の外を見る。鮮やかすぎる緑に、気持ちがとても柔らかくなる。都会には緑が少ない、というけれど、東京の緑の絶対数って、実はとても多いんじゃないかと思う。日本人にとって自然や緑って、ごくごくあたりまえすぎるもの (身近すぎるもの) だから、街の中に積極的にそれらを取り込むという思想がないのではないか? 庭や盆栽という小宇宙を作ることは世界のどんな民族よりも得意なくせに、街を自分 「達」 のものと考える意識は薄い。門や塀を作って自分の土地だと主張するせせこましさ、そういうところがもったいないなあといつも思う。

「自然を見せてあげる」 という思想がないから、桜も銀杏も松の木も建物の影に隠れる。だから自然がないように見えるのではないか? でも、「トーキョーは自然や緑が少ない」、と言われる本当の原因というのは何より、そこに住む人が緑や新芽が育っていく変化に気づくための心の余裕を持ってないことが原因なのではないだろうか?


つーか、こんなに天気がよくて気候もいいのに、オレ臭い。今日こそ帰ろ。

2008年04月14日

チベットチベット

日記 2008

日曜日、チベットチベットというドキュメンタリー映画の上映会があったので行ってきた。
西荻窪。なぜか今日もこの前と同じく雨。

ストーリー (チラシから引用)

在日韓国人三世として揺らぐアイデンティティを胸に秘め、
旅人はビデオカメラを片手に行き先を決めない世界旅行に出かけた。
旅の途中、モンゴルの遊牧民のテントで見かけたダライラマ14世の写真。
中国の弾圧からチベットの民族性を守るためにインドに亡命しているダライラマに興味を覚える。
彼は答えを求めて一路インドへ。そこで多くの亡命チベット人とふれあううちに、
チベットの受難とそれが今もなお続いてることにショックを受ける。
『この問題を少しでも多くの人に伝えたい』
この想いはチベット亡命政府に届き、ダライラマ14世への10日間にわたる同行取材も可能にした。
さらに旅は本当のチベット (現・中華人民共和国チベット自治区) へと続く……。
公式サイト

作者であるキムさんという人もいらしていたのだが、上映の前、彼はこう言ってビデオのスタートボタンを押した。

「今、(チベットに関する) いろんな行動が行われてるんですが、知ってやるのと、知らないでやるのと、たぶんだいぶ違うと思うんですね。ちゃんとチベットの現状を知ってほしい、と思ってこの作品を作りました。」

すごい作品だった。10年前に撮られたものらしいのだけど、彼は当時全くの素人だったという。

「前の年に猿岩石の番組が流行ったんですね。それで、どうせ世界旅行に出るなら、ビデオカメラを持っていけば、ああいうことができるんじゃないかって、軽い気持ちで買ったんです。」

とても素人の作品 (今は素人ではないけれど) だとは思えない仕上がりだった。放送局が作るどんなキレイな番組よりも、「伝えたいこと」 が伝わってくる映像だった。そしてたぶん彼の意図した 「伝えたいこと」 が、ボクにも会場にいた観客にも確実に伝わっていたと思う。

そんな90分ぐらいの映像の中で一番印象的だったのは、チベットからの難民を受け入れる(インド?ネパール?の) 難民センターの看護婦長の話だった。

「毎年チベット (中国) からの脱出者は増える一方です。この状況には私たちも非常に危機感を持っています。世界中の人に (チベットの実情を) 『知ってもらうこと』 のほうが、援助金をもらうよりも大切なことだと考えています。」

援助金よりも「知ってもらう」ことのほうが大切。その言葉が意味することは何なのか? ぼくらは想像力を働かせなければいけないなと思う。

「民族の誇りを持て」
キムさん自身が、一世であるお爺さんからよく聞かされたというその言葉。チベットの現状を追うこのドキュメンタリーは、キムさん自身のアイデンティティへの疑問と葛藤が重なりあいつつ、展開していく。そして、「『知る』 ことから始まる」 という言葉で締めくくられていた。

東京では水曜日にも上映会があるので、興味ある方は是非。

日時:4月16日(水)
場所:正満寺本堂 東京都港区高輪1-27-44
時間:
  第一部:15:00~16:35+ミニコンサート+座談会
  第二部:19:00~20:35+ミニコンサート+座談会
参加:1500円(予約は必要ありません)

2008年04月12日

「ヒマラヤを越える子供たち」、「『在外』日本人」

日記 2008


知らない、ということは罪である ~ 「ヒマラヤを越える子供たち」


3月の、ある雨の日曜日、「ヒマラヤを越える子供たち」 という短編映画を見る機会があった。そう、中国で起きている出来事に反応しての上映だった。小さな会場には観客が文字通り 「あふれ出して」 いた。世の中の感心の高さが伺える。中国というのは多民族国家だ、ということは行ってみてはじめて実感するものである。50を越える数の民族があの国にはいるのである。(それはひょっとすると北京や上海を訪れただけれは分からないかもしれない。) そして漢民族中心の政治が行われている。「その他」 の民族のアパルトヘイト的な扱いのうえに、今の中国が成立しているのである。それは間接的に日本が (日本人が) 加担してると言えなくもない。

ボク自身、4年前に初めて中国の (というか、ウイグルの) 土を踏んだとき、ガイドをしてくれたのはEさんというウイグル人だった。日本語、中国語、ウイグル語を操る彼の、現地の漢民族とのやりとりの中にも、ちょっとだけ中国という国の構造を垣間見た気がした。

この30分の短編映画、「少数民族」 であるがゆえに中国国内で満足に教育を受けられないチベット人の子供達が、ダライラマの運営するインドの学校に 「脱出」 をする様子を追ったドキュメンタリーである。しかも、6000メートルを越えるヒマラヤの国境を歩いて越えるのである。そんな子供達が毎年数百人もいるのだそうだ。しかも5歳とか6歳とかの子供たち。親と別れて、ひょっとしたらもう一生再会することもできないかもしれない。でも、子供の未来に国の未来を託して、親は子供にヒマラヤ越えをさせる。そんな、必死な 「生」 がこの世の中にはある。

知らない、ということは、それだけですでに罪なのだ。

そう思った。もちろん、自分に対してである。
同じことをサラエボでもモスタルでも感じた。戦争や殺し合いというのは、遠い昔の、死んだ爺さんや婆さんの時代の出来事なのだと思っていた。それは婆さんが風呂から上がった後に話し出す、昔話の中の一節だとしか思えなかったのである。テレビのニュースで中東の戦争の映像を見たって全然リアリティはない。よその星の出来事にしか思えないし。

でも、サラエボの街で、建物の壁一面に残る銃痕を見たとき、モスタルの街の安宿で、ボクよりも若いクロアチア人青年が 「あの時の異常な雰囲気っていうのは、君達には想像すらできないと思うよ」 と口にしたのを聞いたとき、戦争や殺し合いというものも、自分と繋がってる世界で起きている (または起きうる) 出来事なのだな、という実感を肌で感じた。

自分に何ができるのか? 何ができたのか? 
うーん……正直、何もできないかもしれない。

でも、知らない、何も考えない、ちょっとでも行動しないことよりはマシである、少なくとも人として。「知らない」 という、無意識の罪人を少なくすることができるかもしれないからだ。「クチコミ」 はくだらないモノやサービスを売るためだけの方法論ではないはずである。


「在外」日本人


「在外」日本人という本がある。なぜこの本を買ったのか、全くいきさつを覚えていないんだけど、すばらしいドキュメンタリーである。日本を出て、海外で生活している日本人のインタビューを綴った本。108人の名もない 「在外」 日本人が登場する。「冷戦構造の崩壊」 という章は涙なしには読めない。

よく、海外で生活をすると逆に日本が見えてくる、という話を聞くけど、まさにそのとおりだと思った。彼らの言葉ひとつひとつが今の日本を、そして日本が歩んできた道を、そして日本が失ってしまったものを浮き彫りにする。事実は小説より奇なり。どんな机上の論理よりもリアルでパワフルなのだ。

そんなこの本の中で、ここ数ヶ月の自分の体験や世の中の出来事に対してのヒントになる一文を見つけたので勝手ながら引用メモ。ここでインタビューを受けている人はフリーのジャーナリスト。16年間、ビルマの少数民族ゲリラを取材していた人だ。


ゲリラっていっても格好いいかって思ったらまったくそんなことはない。武器を担いで逃げるだけ。逃げ回ることも戦いだ、ってこと初めて知りました。派手に戦闘することも大切かもしれないけど、「私たちは反対だ」 と叫びつづけながら、ただ逃げ回る。大きな体制に対して 「私は反対だ」 って言う人がい続けるってことが大切なんだ。ジャングルで泥まみれになりながら、ゾウリムシのように険しい山を這いつくばって、逃げることだけをやっている人たちがこの世の中にいるんです。

~中略~

2、3年前かな。ビルマ北部の少数山岳民族カチン族のブラン・センというゲリラの議長が日本に行ったことがあるんです、外国人記者クラブで彼が講演することになった。講演は 『山の民からの視点』 というタイトルでした。そしてこう切り出したんです。「私たちはアジアの辺境の、もっとも山の奥に住んでいます。あなたがたからすれば私の意見はまちがっているかもしれません。しかし、単純に間違いだと断定せずに聞いていただきたい。私の意見は辺境の山、ジャングルの民からの視点なのです。まず、私たちという人間がいるという事実を知ってもらいたい。」 ──堂々と誇りをもって講演を始めました。会場の外国人ジャーナリストの間に、驚きと感動がヒタヒタと広がっていくのが手にとるように感じ取れました。

ああ、この男たちと付き合い続けてよかったな、とそのとき思いましたね。自分自身の16年間に納得しました。人それぞれに場所と時間と視点を与えられて、生きたり、死んだりしているわけだけど、お互いの存在を尊重していけば、地球には何も問題は起きないんじゃないですかね。

──────「在外」日本人 柳原和子 1994年 晶文社刊 ~幻のゲリラ~ より


追記:
ショック……。この本をボクが読み始めた頃、柳原さんは亡くなられたようです。知らなかった……一度お会いしてみたかった。2冊のあなたの本は、今のボクに激しくヒントを与えてくれました。やっぱり 「本」 というのは生き続けるんですね。ありがとう。ご冥福をお祈りします。